昭和43年6月23日 月例祭における御教話 (信太郎)
慢心は大怪我の元なり、と戒めておられます。これは、大怪我の元にならずとも、慢心は良くありません。ところが、私どもが厳密に申しますと、いつも慢心しておる。ですから、その慢心にも色々あるんですね。形に現れますと、これは、もういよいよ鼻持ちなりません。いわゆる、高ぶっておる、偉そうにしておる。ね。その形に現れて来る慢心は、いよいよ、これは鼻持ちがなりませんですけれども。まあ、何とはなしに、邪気がない、かえってですね。心に慢心すること。これは、まあ、人にはあんまり分かりません。ね。人には分かりませんけれども、やはり神様が見てお出でである。また、自分自身の心を、自分自身でより分かりませんから、自分自身には分かる。ね。第一、慢心を致しておりますと、腹が立つ。腹が立つのは、もうあれは慢心しておる証拠ですね。自分が、いわば、よかつのように思うておるというところにです、腹が立ったり、傷つけられたという訳になる。それが、心の状態が有り難いのでいっぱいであります時には、腹も立ちません、傷つけもされません。傷つけられるどころ、それによって、非常におかげを頂きます。ね。という、慢心をしない慢心が私どもの心から取り除かれるという事は、そういう例えばこう、いわゆる大怪我は致しませんにいたしましても、慢心というのはいけません。ところが、これを、自分を反省しない、自分を省みないというような事でございましたら、もう、まずまず、十人が十人、この慢心があります。慢心毛と言うと、(かさけ?)のないものはないと言われておるくらいですか。ね。いかにも自分は清浄な体だと思っておりますけれども、実を言うたら、皆にその(かさき?)があるて。( )お互いの心の中には、ね、慢心。自慢をする心、人を見下げる心、物を軽う見る心。ね。そういうようなところから、自分の心を見当して参りますとですね、はあ、これが慢心なのかと気がつく事が沢山ございます。第一、人を軽う見る。ね、人を見下げる。物を粗末にする。ね。物を軽う見る。ね。これは、慢心です。ね。事の自体でも慢心致しておるとです、それが大変な、例えば大怪我の元になるような、ちょっとした些細な事柄でも、慢心しておる時にはそれを軽い、よかよかという事です。それが大怪我の元になりましたり、ね、それが大きな問題を引き起こす元になったりするのでございます。もう、よくよく信心させて頂く者は、この慢心というものを自分の心の中に見極め取っちめてです。ね。お詫びをさせてもろうたり、そこを改めさせて行ったりしなければならない事をよく感じさせて頂かなければならん。ね。私は、8時の御祈念を奉仕する為に、ここへ着かせて頂きましたら、ちょうど楽の方達、天楽の方達がやって参りました。後ろの方で田中さんが、中村さんに、どうも先日はスイマセンでしたと、こう言う。いいえ。もう、何という、そのすいませんでしたという言葉の、(どう申しますかね。)、有り難いものかと。清々しい、その雰囲気までも清めるような感じがする。本当にあの、すいませんでしたという事ですね。これは、慢心しておる時にはなかなか出らんのですよ。今日は、私はその慢心のね、いわば形に現れて出る慢心、心に潜んでおる慢心。そういうような事を、まあ、私も自分の心の中に頂かせてもらいながら、皆さんにも聞いて頂きたいと思うのです。私がおらにゃ出けない。これなんかは、もう慢心の、ね、私ぐらいな者でもお役に使うて頂いておるという頂きでなかにゃいかん。ね。しばらくしましたら、一足遅れて豊美がやって来ておりましたが。すいません、遅うなりしましてと、こう。もう、何とも言えん、その心良い、何と言うですかね。一つのリズムがね、こう、響き渡るんです。ね。私、いつもは、こういう風にね、人の前にも、神様の前にもスイマセンと、こう素直に言えれるね、内容を頂きたいと思うですね、いつも。そういう心に、私はおかげがあると思うのです。言うなら、和賀心とは、いつもスイマセンと詫びれる心だと、私はある意味では思うですね。ですから、これは、なら、今日は私は形に現われるもの、心に、ね、その両面がある。ね。言葉には、例えば申しませんでも、いつも心の盛に、盛、心の中に、すいません、私のような者がというようなものが、心の中にいつもある。ですから、口から出るのは、もう、訳ないこと。心の中にいつも、すいませんが繰り返されておると言うか、私のような者がというような時です、相手を傷つけるはずもなし、または自分も傷をつけられる事もない。ね。このすいませんが内容にもない時なんです、傷つけられる。いわゆる、自分がよかつのごと思うとるとか。ね。それが、形に現われますと、いよいよ、鼻持ちにならんのであり、ね、心の場合はそれが自分自身がいつも傷つけられ、いわば痛みつけられ続けでありますから、いつもぷりぷりしておったり、腹が立ったりしておる訳でございます。ね。その、いよいよ一つ、本気でこのへんのところをね、頂いて行きたいと、こう思います。ところが、少し調子が出て参りますと、それをすぐ忘れてしまう。ね、慢心は大怪我の元。ね。それは、大怪我にならずとも、こんなに自分の周囲を不愉快にするものはないのであり、同時に自分自身も内容から、内容にそういうものがありますと、ね、腹が立つ。そこで求められるものは何かと言うと、ね、真である。ね。お道の信心にはこの真という事を、もう教祖はもう縦横無尽に使うておられますですね。真、真心というような言葉を、もう沢山使うてございます、御教えの中にも。ね。口に真を語りつつ、心に真の無きこと。ね。あれが、みょうなもんですよ。なら、今日、田中さんが、その中村さんにスイマセンとこう言うておられるのが、心からそれがあるから、周囲に快い響きを持って響いて来るのです。ね。心では済まんとは思うとらんばってん、口だけでスイマセンと言うておる。私がスイマセンち言やあよかっじゃろうもん、といったようなスイマセンじゃいけないという事。私が断りさえすれば、もうそれで良かっじゃろうもん、というような事ではいけないて。本当に、自分自身の非を悟らせてもろうて。ね。真実、自分の心からスイマセンであり、お詫びでなからなければいけません。ね。同時に、自分自身の心の中に、いつもスイマセンがなからなきゃ出けない。そこで私どもが、いわゆる、信心によって真を追求する訳でございます。ね、真とは、真心とはという訳です。ね。2~3日前の、昼の修行の時にでしたでしょうかね。口に真を語り、心に真の無きことと。本当にあの、これは御神戒ですね。こう、信心させて頂く者に対する、特別、こう戒めておられるお言葉なんです。そこで私どもは、その真とは何ぞやという訳で、真を追求する訳でございます。ね。四神様は、ね、物事が成就しない。ね、願っておるおかげがおかげにならない時には、自分の真がかげたと悟れとこう、さえ仰っておられます。ね、おかげが頂けない時には、自分の真がかげたと悟れと。んなら、おかげを受けておる。お取次ぎを頂いておかげを頂いておるから、んなら、貴方は真が、貴方の真が通じたから、神様がおかげを下さったかと言うと、そうでもない。ね。そこで、なかなか、その真というものが、分からんのだ。自分はおかげを頂いておる。だから、自分の信心は間違っていないというような考え方なん。金光様の御信心はそうじゃない。ね。自分の真がかげておっても、信心が足りなくても、修行が不足であっても、おかげを下さってあるというところにですね、いよいよ真の追求の難しさを感じます。ね。四神様のそのように仰る、その、真がかげたと悟れと。ね、願うても願うてもおかげにならん。これは、自分の信心がどこに間違いあると。結局は、真がかげておるんだという訳なのでございますけれども。先日は、こんな、一つの異例があります。ある方が、ある教会の御信者さんです。ね。もう、私がどげん真心いっぱいでしたっちゃ、その先生がいっちょん、その私の真心を分かって下さらんという訳です。そりゃ、貴方の真心が悟らにゃいかんとですよち。いいえ、先生、もう私はほんなこて、これ以上真心は尽しきらんち言うて、言われる。それが先生、面白いとです、面白い。形に現しますとですね、もう先生が非常に喜びなさる。ね。今まで千円のお初穂をしよったつばね、二千円にすると、とても、もうコロッと機嫌が良うなんなさった、次行く時には。そん時には、まだ見とんなさらんもんじゃけん分からん。それけん、プンプンしよんなさるばってん、次に行く時には、もう変わっとんなさる。何か形に現して行く時には、もういつもニコニコして下さる。けれどもね、自分の心で奉仕する時、これが真心と思うてさせてもらう時にはです、それが非常にその、反対に(ふ)が悪い事がある。もう、私はもう、あげな先生には仕えきらんちゅう訳です。そりゃいけませんよ。やはり、真を追求して行くのが真の信心ですからねと、私は、もう私はそげん思うとりますから、そうお取次ぎをさせて頂いておりましたら、神様からですね、こちらが真心、真の鍵を持って行っても、ね、開かない場合があるて。それは、金庫なら金庫に、真の鍵を持って行って。それは、ガチャッと開かなきゃならん。ね。金銭のお繰り合わせがそっからすぐ頂けてくる。様々な事がスムーズに成就する。真を持って、真の鍵を持って、これを開くならば、開かないものはない。けれどもね、相手の心が崩れておる場合があるとですよ。そん時に、いくら真の鍵を持って行ったっちゃ開かんち。私はそれを頂いてからですね、これは本当にその、難しい事だなと、こう思うのです。ね。あの人に、自分は心から親切に、心から真にさせて頂いておるつもりなんだけれども。ね。だから私は、まあ、そこでは申しませんけれどもです、そん時感じたんです。ね。はあ、その先生は、そん人の真を受け来んなさらんほどに、その先生の心の中がね、いわば金庫の方が崩れておるんだなという事です。いくら真の鍵を持って行っても開かない。ね、そういう異例もあります。そういう変わった例もある。ね。ですから、もう、そういう場合は、やはり真は追求しなきゃならん。形じゃない。ね、物じゃない。やはり、真心から、自他共の事を祈らせてもらうという信心が必要であるという事が分かる。ね。今日は日曜でもございましたから、一時の修行の御祈念が、今日は非常に、こう日々この数が増えて行く。次から次と、はあ、もう一時の御祈念は有り難い。もう、行っただけで感動する。そういうようなのが、やっぱ段々こう、人から人へ伝わって行くのでございますね。皆さん、もう、50日間あるのですから。もう、それこそ、出けないならば、一日でも。ね、出来るならば二日でも、一周間でも、十日でも。ね。私はどうでも、一緒にね、あの修行に参加させてもらうという事が有り難いことだと思うですね。今日のあの、一生懸命の御祈念中にですね、私はここへ、私はここで奉仕をさせてもらっているんですよ。頂きますのに、あの、長唄に連獅子というのがございますでしょう。あの、皆さんテレビなんかでご覧になる。こう、獅子の毛のようなのを、こう、真っ白いね。獅子の毛をかぶって、舞いを舞います。いわゆる、親子の獅子が連れ舞いをするのです。連獅子と、つれ獅子と書いてある。もう、それこそね、狂わんばかりにね、親子の獅子がこう、舞台狭しと、こう舞い狂うておるところを頂くんですよ。もう、私はもう、本当に感動致しました。ね。私どもが一生懸命に修行させて頂いておればですね、私は親神様も一緒に修行しておって下さるんだという事ですよ。ね、そういう例えば修行に、お互い参加しなければおられんのですよ、実を言うたら。ね。これが段々、50人が100人になって参りましてです。本当に、合楽全信奉者が、こうした特別の修行の時だけでも、修行の味わいを分からせてもろうて、神様の思い、神様の御一緒に連れ舞いをするような思いで修行に参加させて頂くという事をですね、素直に私は頂いて行く信心が必要じゃないかと、こう思うです。ね、合楽を上げての修行でございます。いや、合楽を上げてじゃない。全教を上げての修行なのです。ね。ですから、それに神様も一緒に、親子の獅子が、ね、連れのうて、もう狂わんばかりに舞台狭しと舞い狂うておるような修行の姿をですね、御心眼に頂いて感動致しました。ね。初めての人は、もうあそこへ入って来るなり、感動してしまって、もうはじまっておる時など。もう、第一遅れる人がありませんです。今日は日曜でもございましたから、学生会の方達やらが参加しておりましたから、ちょうど昼、100名ございました。ね。その人達が一心不乱に大祓いを奏上させて頂いて、汗流して、汗諾々で御祈念をしておる姿というのは、もう実にそうかんです。ね。あれだけでも、やはり感動に値する。あれだけでも、やはりおかげを頂くはずだと、私は思います。ね。2~3日前の、やはり昼の御祈念の時には、必ず今、御神戒を1節ずつ頂いております。一緒に皆さんと、こう奉唱致しましてから、それを、今までが、あの御神戒というのは、もう言葉に現われておりますからね。口に真を語りつつ、心に真の無きこと。そこだけしか感じていなかった。ね。幼少の時を忘れて、親に不幸のこと、というように、もうそれだけ。けれども、それの、本当の真意というか。それを頂きやすく頂く為にはといったような角度から、御理解を一口ずつ頂くのです。今日、秋永先生が、どうでも、あの毎日のあれを、廊下に一口ずつの御理解ですから、ずっとこう、書いて張ったらどうじゃろうかとさえ言われたというぐらい。ね。本当にあれは、皆さんどうでも、書き止めておきたいですね。ですから、毎日毎日のが、あそこへ小さく書かれてございますから、やはり、頂くと同時に、やはり書き残しておきたいもんですね。ね。例えば、口に真を語りつつ、心に真の無きことと。私どもはその真を追求しておる。ね。だから、それだけで、して、その真を追求をする、真を分からせてもらう。ね、私どもの心が親切でいっぱい。私どもがいつも心の中から、すいませんが言えれる状態の時。ね。そういう時には、もう既に私の心は(テープ切れ・・・)。その時の御理解にですね、例えば皆さんが一心不乱に御祈念をしておる。ね。もう、老若男女、一心不乱に一体となって御祈念をさせて頂く。ね。もう、祈る言葉というようなものじゃなくてから、もう、何と言うでしょうかね。一丸になって、あの大祓いが奏上されて、もう一心不乱に。ね。そういう時にね、真の芽が出ると仰るとですよ。して見ると、この修行という事が、いかに大事かという事が分かる。修行と言うても、あの一心不乱のいわゆる御祈念のといったようなものが、やはり大事であるかという事が分かります。ね。真の芽というのは、必ず御祈念しなければ出らんというのじゃありませんよ。けども、そういう時ならですね、もう、皆が真を感ずる事が出けるんだと。訳は分からんなりに感動するというのは、もう、既に真が出たのだ。ね。有り難い事がどういうことか分からなかった私が、ね、有り難いと感じた時には、もう既に真の芽が出たんだと、こういう訳なんです。ね。真を追求をさせてもらう。真とは何ぞやと言うて、私どもはその事に取り組んで稽古をさせて頂いとる者ならばです。ね、はあ、これが真だというものをね、やはり頂きたい。それで、あの一時の御祈念に参加させてもらうと、並べて皆の者が、まあ、頂ける訳ですね。一生懸命である限りは頂くんです。けれども、私はこっから見よるから分かるんです。他所ばっかこうこう見てから、キョロキョロしとんなさる人も、やっぱある。あれでは、感動もなかろうと、こう言う。もう、自分のもう姿なんかは、もう問題、あの、見栄やら形じゃない。もう、一心に。ね、大祓いのあれが奏上されておる。ね、その例えば、後の清々しさというか。ね。一汗流した後の快さというか。はあ、おかげ頂いたという心。その心が既に、真の芽である。ね。喜びの芽とは真なんです。ね。その芽を、ね、教えを行ずるという事によって、いよいよ育てて行けと。いよいよ、その芽を、ね、心行によって育てて行けと、こういう事になる。ね。私は今日申します。心の中に感ずる慢心。形の上に現れる慢心。ね。これなんかはね、例えば偉そうにしておると、誰かがそれを、まあ、あん奴ばっかりは何時も偉そうにしてからと、という念がこちらへ響いてくる。ですから、心の中に、よし喜びがあってもですね、例えば、なら、昼の御祈念なら御祈念を頂いて有り難かったという、この喜びの芽があってもです、ああ、あん奴はもうよかのごつしてから、偉そうにしてる。という、そういう思いというか、念というものには、これにこう、入って参りますとですね、この、真心とか、真の芽は枯れてしまうんです。不思議ですね、この思いという、念というものは。ね、御祈念の念です。念というものは、神様にそのように通うて行くように、人にも通うて行くんですよ。あん奴が、あん奴がと。ね。例えば、もう恨み(骨髄に?)。それこそ、ね、わら人形に(ごすんくつ?)なんていうような、悪い念というようなものは、確かにですね、相手を殺すような念がそこから生まれて来るです。ですから、その反対に、その一念で人が助かるという事も言えるわけですよね。ですから、いかに形の上にでもですね、実意丁寧な(ふ?)というものがなからなきゃいけない。ね。人に、あん奴は偉そうな奴じゃなんという風に言われるような態度をね、いわば教えの鏡の中からそれをハッキリしたならばです、改めて行かなきゃいけません。ね。自分は気付かん間に、人の念でこの真の芽が枯れてしまう。これとは、また今度は反対。形には現われない。ね。けれども、その、心の中に慢心がある。ね。それを、例えば腹が立った時には、もう既に、貴方の心の中に慢心があるのだということ。ね。この前のお月次祭でしたかね。麻生さんが頂かれた御教えを皆さんに聞いてもらったですね。この中心の(たかだか?)指は、ね、かのうしておると。それで、これを絞ったら地ウミのようなものが出た。それで、また一段と絞ったら、これが根じゃろうと思うような根が出た。ね、中心、心。心がかのうしておる時です。だから、触られたら、もう痛いのです。だから、腹の立つ時には、自分の心の中に、こういう血ウミがまだ溜まってるんだと、先ず悟らせてもろうてです。この、人じゃない、自分の心の中の血ウミを先ず出すことに本気にならなきゃいけんのです。すと、後はスッキリと、どうしてこんくらいな事が腹ん立ったじゃろうかという事になって来るのですよ。ね。そういう時に、潜んでおる心の慢心を発見する訳です。ね。私はそういう、その慢心がね、おかげに頂けない元になったり、大怪我の元になったりしたのでは、まあ、いわゆる真を追求させて頂いておる。ね、真を分からせて頂こうとしておる私ども信心者にとってはね、大変な事なのですから。ね、その事を一つ取り組んで行かなきゃいけないという風に思うのです。ね。そういう意味でですね、例えば、その一時の御祈念というような事が、自分もその気になって一生懸命に、なら、例えばあの御祈念の修行に参加させてもらうなら。もう、誰しもが、自分の心の中に、真の芽を頂ける事が出ける。そして、その真の芽をです、いよいよ育てて行くことの為に、私どもの心の中から慢心を追放しなければいけない。または、形に現われておる、ね、形に現われておるところの慢心。ね、人に不愉快な思いをさせるところの慢心。ね。そういうようなものを、教えの鏡を持って見たら分かるのですから。ね。そこんところを改めて行くという信心。ね。お互いの信心が、いよいよ、この修行と共に白熱化して参ります。ね。その白熱化して参りますその信心を持って、大祓式に突入して行きたいという風に、私は思うのでございます。ね。30日はいよいよ大祓式。どういう風にして、あの大祓式を受けようか、または、仕えようかという気持ちにならにゃいけません。ね。お祓いを受けさえすりゃ良いという。ね、お祓いを受けき行くではなくて、そのお祓式をどう仕えるか。どうぞ、総代さん、幹部さんの方達は、ね、その事を一つ話し合ってください。もう、去年のような大祓式じゃいけんのです。ね。去年はそうだったでしょうが。皆さんも初めての大祓式。ですから、私がここからね、お説教台の上から、あの大祓式の後にも申しましたように。ね。ちょっと、あの詩を忘れましたけれども。ね。あの、祓いのしで、あの、しでで打ち祓うて頂く。ね。そこには、もう雲きりもなく、汚れが祓われるというような御理解を元にして頂きました。確かに、神様から(お知らせ?)を頂きましたように、本当にお祓いを受けた車は、もう本当に、皆おかげを受けました。千台からの車でした。ね。その時に私が申しました。ね。けれどもね、いくらお祓いを受けたからと言うてです、ね、神様の言う事を聞かずに、法を無視してからはいけません。それは、もう(受けあわれん?)というような事でした。あれは、ちょうど一年前の大祓式が終わりましてからでした。電話がかかって、もうそれこそ、(けただましゅう?)かかって参りました。高橋さんからなんです。ね。途中で、そのパトカーに捕まった。大祓いを受けた帰りは、文男さんと二人ですから、また。もう、言うなら、先制、先制級の人達がですね、もう、こげなほんなこて、もう、今、今こそお祓いを受けてですよ、もう雲きりもなかてん何てんち、こっちは言うとる手前があるもんですからね。ほらあ、本当に神様に対して相済まん事じゃったと思うてですね。ところが、私が言うその、法を無視してる。ね。スピードを出しちゃならんところにスピード出しておるところにです。ね。けれども、こらあ、もうほんなこて、もう、ね、大祓いを受けたその日にこういう事があってはと私は思わせて頂いて、お届けがあったから、すぐこのお届けをさせて頂きました。したら、先日の会合の時ですもん。私は、もう一年もなる、忘れとりましたたい。したら、先生、あの問題はとうとう蒸発しましたよと言いますもん。今、蒸発という事を、無くなるちゅうこと。ね。警察に呼ばれたけれどもね、それっきり、その忘れござるとかどうか間違うとるか知らんばってん、二台とも何ともその後言うて来んです。はあ、やっぱり雲きりもなく祓われたんだなという風に、私は確信致します。ね。それが、一年ぶりです、聞いたと私。はっは。まあだ、お礼のお届けもあっとらん。はっはっ。おそらく、もう一年も経ったじゃけんで、おそらく、もう呼び出しは来るまいと思う。警察も分からんですよね、忘れとりましたち言うち来るかん知れん。ああ、今日誰じゃったですか。警察から版持って来いち言われた。ああ、久富勇夫さんだった。はい、ち言うちから立ち上がったげな。下着な裸でなさったごたる風です、すててこ一枚で。したら、すててこがバリッち破れたげな。ね。神様は厳しいです。ね。だから、それはね、やはり私は、破れたという事は、アンタが神様に対する何かを破った事じゃろうと、私は申しました。ね。それが先生、もう私は、もう共励、あの、何ですか。共励の何か部長さんか何かしておられますから。もう、どこでも、その共励会がある時にゃ出向いて行く事を神様に約束をしておるのに関わらず、先日の福岡の共励会に出席しませんでした。だから、もうさっそく神様が(おとがみ?)がある。ね、神様が受けてござる証拠なんです。だから、行けんなら行けんでも良いから、そこんところのお詫びの、ね、お詫びの信心というのは、すててこをね、こうきれいに修繕し、破れた所は、そこは修繕しとかにゃいけんというお知らせである。そげな事で、警察から呼び出しが来んとも限らんのですからね、まだ。ちょうど大祓式の帰ったら、夕べ出て来とったちゅう事なるかも分からんと。ね。けれどもね、その事から私は感じさせて頂くのにです、初めて、私どもが訳の分からんなりに、ね、私が大体は大祓式がどげな事じゃ、まだ私はこの、ああ、こうこうした事がなかです、まあだ、いっぺんもなか。だから、私はしきらん。だから、この修行生の方達の方がよっぽど上手。ちょいと、こげな先生は、まあ、ちょいと日本に(下げられて?)ありますまいね。あの、大祓いを、お祓いもしきらん。うん。ですけどもね、本当にあのお祓いの式によってです。ね。雲きりの後もないように清められた。拭き清めて頂いたという事をです、私どもは本当にです、本当に神様の御神徳の中にあったなあ、特別の御守護の中にあったなという事を、思わん訳には参りません。ね。それけん、いっちょ今年もどうでんこうでん、いっちょお願いしとかにゃ出けん。と、お祓いを受けるだけではいけんのですよ。ね。先日、あの、お祓い式の用紙が、はらえつものが出けて参りました。で、ここでお届けがありましたから、それを神様にお届けさせて頂きよりましたら、今度はまた頂くんですよ。ね。それにはね、今あるを嬉といやび奉らなば。ね。今あるを嬉といやび奉らなばと。今あるをという事は、今私があるという事。ここに、今、自動車が今あるということ。今、私がここに、今日お生かしのおかげを頂いておるという事。今あるを嬉といやび奉らなば。その事を、お礼を申し上げてならばです、家に不幸の起こる事なしというお知らせでした。ね。私、そこんところからですね、本当にあの、神様の願いというか、神様の思いに触れる幹事が致します。這えば立て、立てば歩めの親心。去年は何もわからなかったから、祓うてもろうたも祓うたら、祓うただけでおかげを頂いた。今年はね、もう、今日ある、只今あるという事を、お礼の申し上げれるような信心になっておかなければならんというところに、今年の大祓い式の焦点が置かれると、私は思うんです。ね。もちろん、ですから、その、初めてお導きを頂いた人、新たな人。これは、また別でしょうね。信心の稽古してないのですから。けれど、皆さんの場合は、もう一年間、大祓式があってこの方、一年間おかげを受けて来て、信心もそれだけ分かったのでありますから、ただ、お祓いを受けただけじゃ、もう今年は大丈夫だといったような考え方は、もう捨てなければいけない。信心を一段と進めさせて頂いて。ね。今あるを嬉といやび奉らなば。ね。家に不幸の起こる事ないというおかげを頂かせてもらわなきゃならんのです。今日はあの、特別奉修員の方達の御祈念の後に頂きましたよね。いやびという事は、御礼という事ですよ。礼という字を、祝詞言葉で申しますと、いやびと言うのですね。いやびと言やあ御礼。いやびという事は、御礼を申し上げたらという事なんです。ね。私、今日、御神前に出らせて頂きましたら、一番に頂きますのがね、ワラで大きなのしが作ってあるんですよ、こんな。こんなのしがね。わらで、わらこうげ、こうげひんで作っちゃる。それがね、大地にこうやって(いかって?)行きよるところを頂きました。いわゆる、還元ですね。そして御理解にです。ね。暗い所で提灯を欠いた。ね。にわか雨に遭っておるところに、傘一本借りた。ね。そういう時には、ね、はあ、もうこの真の闇、真っ暗闇。さあ、どうしようかと言いよるところへ、光を借りた。それこそ、地獄に仏に会うたような思いで、有り難いと思うて帰らせてもろうた。そしたら、明くる日はね、その提灯をお返しに行く時にです、大根の一本でも、昨日はおかげで、ね、暗い思いをせんで済みましたと言うて、お礼を言う事が、ね、まっ、本当な事ということなんです。ね。昨日はあの、にわか雨に遭っておりました時に、傘一本貸して頂いたら、おかげで濡れんで済みましたと言うて、芋のひとくれもと、こう言うんです。もう、その御理解がですね、もう何とも言えん、そのあっちから提灯ば借ったけんで、まあ、礼儀として返さんならんといったようなもんじゃなくて。もう、それは、もう当然の事、当たり前なこと。どこから、その買うて来たのどうのじゃなくてから、家にある物をそのままですね、大根の一本もと。芋のひとくれも添えて、昨日はおかげで濡れんで済みました。夕べはおかげで暗い思いをせんで済みましたと言うて、そういう生活が本当の、あれは何だったでしょうかね。お礼でしたか。喜び、何じゃったでしょうか。私はちょっとそこんところを忘れましたけれど。ね。喜びという。ね。おかげを頂いて有り難いと。その、有り難いというものがです、ね、いやびになってですね、お礼になって現されて、初めてお礼の生活という事が言える。ただ毎日、もう神様に感謝しよります。毎日有り難うございますと心から申しよりますと言うだけじゃいけない。ね。それが、どうこうと言うのじゃない。もう、本当にそれが当たり前な事としてです。それこそ、お百姓さんであるならばです。ね。それこそ、芋のひとくれも、大根の一本もと言うのである。私どもが、ね、本当にこれが泣かずにおられない。本当に、自分方は今、お湿りの真っ最中だというような時に当たってもです。ここで、ね、お取次ぎを頂かせて、おかげを頂かせてもらうと、ね、おかげで泣かんで済むような。言うなら、濡れんで済むようなおかげが受けられるでしょうが。もう、既に一本の傘を借りたのですよ。ね。心がもう真っ暗になる。ね。お参りをさせて頂いて、お取次ぎを頂かせてもろうたら、心が、もう帰り道はスッキリして帰ることが出けた。もう、いわば提灯を借りたわけなんです。ね。そういうおかげを頂いたら、そこにね、いやび心というものが、それに伴わなければ。ただ、有り難うございました、有り難うございました。昨日は濡れんで済みました。ね。昨日は暗い思いをせんで済みましたと言うだけではなしに。そういう、いやびの生活こそがです。ね。言うなら、信心生活であるというような事を頂かせてもろうてです。私どもが、去年一年経ってから、そのお祓い式をですね。去年はお礼を言う事も何も分からなかったのだけれども、一年経たせて頂いたら、おかげで一年間の無事を本当にお礼を申し上げさせて頂いて。ね。そのお礼が、私は大祓式の形になって現われて来なければいけないと思うんです。ね。そうでしょうが。去年は、だからもう、去年の大祓式は、もう言うなら、言うなら、もうよかよかでやらせてもらった。けれども、今年はそういう事が分からせて頂いた一年間であるのでございますから。それこそ、今あるを嬉と思う心をいやびの心に現して、あのお祭りが仕えられる。大祓い式が仕えられた。ね。その上にお祓いを受けさせて頂くという事によってです、ね、それだけ信心がお互い成長しなければいけないということ。ね。私は、真とは、そういう事じゃなかろうかと、こう思うです。ね。そこで、私どもの心の中から、ね、慢心の追放。形の上から慢心の追放。心の中にも慢心の追放。ね。これを、私は本気に心掛けさせて頂くところからです、言うならば、あの、スイマセンと周囲に清々しいまでの響きを持った、私は信心させて頂く者の態度というものが、自ずと備わって来る。自分の心が本当にすいませんという時には、ね、普通でならば、どんなに腹の立つような事が、分からんような事であっても、それを有り難しと受けることが出ける。ね。そういう、私は信心をね、いわば、もうお互いが、身につけて行かなければならない。親神様も一緒に、私どもと共に。ね。その、長唄の連獅子じゃないですけれども、神様も一緒に御修行下さってある。ね。その御修行に参加させて頂いて。まず、一つ、真の芽というものを頂こうじゃないか。ね。家族中と言いたいのだけれども、ね、せめて出けんなら、移り変わりにでもです。ね。あの、久留米の井上さんの所では、そういう風に決められておる。だから、いよいよ、そのお参りが出けない時には、おばあちゃんが参って見えます。というようにですね、この50日間という信行期間をですね、いよいよ家族中の者が、真とはこういうものだ。しかも、この真を育てて行く為には、このような精進、努力、信心が必要なのだ。ね。そこに、頂けて行くところの、ね、おかげというのが、私は和賀心。和らぎ賀ぶ心であると。ね。そういう心を、いよいよ求めての信心。今日は、そこんところを、真と申しました。その真の芽も、私どもの形の上にも、心の上にも、慢心があると、ね、形に現われたものは、外から現われて来る念。もう、あん奴ばっかりは大着だとか。あれは大柄だとかと、いうその念で、心の喜びの芽が(たてがえして?)しまうという事を申しましたですね。自分の心の中に、感じるところの慢心。腹が立った時には、もう既に慢心だと。その慢心は、それこそ臭味の芽を出すようにです、自分というものを反省させてもろうて。ね。いよいよ、慢心のない、ね、有り難い信心をさせて頂かなければならない。ね。大怪我にならずともです。ね、そこから、どのようなおかげを落とす事になって来るやら分からん。慢心というのは、先ず第一に、人を軽う見る。ね。物事を軽う見る。そこから、大怪我の元が発生する。ね。ですから、ここんところを実意丁寧に頂いて参りまして。ね、おかげを蒙って行く。それには、先ず、私どもの心の中に、真の養成とでも申しましょうかね。真の追求とでも申しましょうか。その真を頂かせてもらう、いわば、只今はこよないチャンスを頂いておるのだ。しかも家族を上げて、誰でも、もう有り難かったあと言うて、例えば息子が帰って来たら、なら、それが真ばい。その真ば、いっちょ育てて行こうという風に、家族中上げて、真を育てさせて頂くところのおかげを頂く。為に、お互い一つ、形の上にも内容の上にも、慢心の追放を心掛けさせてもらわなきゃならんと思うのでございます。どうぞ。